新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

完結させることが良い、とは限らない。鑑賞「凄ノ王」永井豪ほか

某日、『凄ノ王 超完全完結版』(講談社)を読んだ。全6巻。
「凄ノ王」は少年マガジン連載時はあまりにも唐突な未完で終わっており、僕の漫画鑑賞の師匠・珠樹さんは、それが如何に衝撃だったかを熱心に語ってくれた。僕は貧乏だったので週刊漫画雑誌は買ってなくて、知らなかった。後に岡山・奉還町のマンガ喫茶「馬酔木」で読んで、その凄さにおののいた。

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永井豪は「手天童子」できれいに、本当にきれいに着地を決めて物語を終わらせたので、まさか次の「凄ノ王」がこんな終わりになるとは誰も思わなかったのではないか。『超完全完結版』1巻には作者あとがきがついてて、「はじめから未完に終わらせるつもりだった」と書いてあるが、ほんとかどうかはよくわからない。

しかし、今回「完結」したバージョンを読むと(といっても少年マガジン版凄ノ王を完結させた、という触れ込みで、後の角川「凄ノ王伝説」とは違う作品、ということになっている)、なんというか、「やっぱこれも未完じゃん」というか、「最初の未完の終わり方がいちばん良かったよ!」と強く言いたくなるのである。

「超完全完結版」6巻のうち、少年マガジン連載部分は5巻までで、最終6巻は一部「凄ノ王伝説」からの使い回し、他は書き下ろし、ということだが、書き下ろし部分は絵が上手くなっていて(これ褒めてないから!)、あるいはアシスタント?が描いてて、つまらないのである。
さらに、物語が東京都下M市の耳宇高校から宇宙へと飛び出し、ものすごくスケールアップしていく。しかし、物語のスケールが大きくなるにつれ、物語は失速停滞していく。はっきり言うと、宇宙に飛び出して宇宙戦艦と邪神凄ノ王が戦う描写は全然おもしろくない。

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それよりも面白かったのは、耳宇高校の帰宅部少年・朱紗真吾が徐々に超能力に目覚め、学園を陰から支配する部団連合や不死団と順々に対決する、少年ジャンプ的展開部分。とくにボクシング部主将・合田との対決は素晴らしい。
合田がまた良いキャラなんだよね、試合で相手を殺したことがある、今回も部団連合が真吾を制裁する尖兵として登場したというのに、実はフェアで思いやりもある、殺すはずの真吾の身を真剣に心配したり、非常に複雑なキャラになっている。「あいつがもう少し弱かったら、殺さずに済んだ……俺が本気を出さねばならないほど強かったのが命取りだった」だったかな? かっこえ~! このへん作者はノリノリで描いてて、それが読者にも判るので嬉しい。ほんとにもうワクワクしてしまうのだ。

それが、完結させるためのパートになると、精彩を欠くんだよね。
少年マガジンの終盤、邪神が街を破壊し、人々が鬼へと変貌していき、宇宙の彼方から八岐大蛇が地球に向かってくる、絶望的な破局の予感が充ちてきたなか、かつての雑魚キャラ・モヒカン不良の青沼が鬼に変貌して閉鎖病棟から瓦礫の街にさまよい出て、灰燼のなか、復活した真吾と邂逅する場面はほんとうに素晴らしい。ここで未完のまま連載終了となるのだが、それがどんなに素晴らしいことか、「超完全完結版」を読むとよくわかるのだ。完結させることは蛇足なんだ!ということがわかる! 永井豪先生、素晴らしいです。

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世界史に残る名作「デビルマン」は超ウルトラCの着地で完結してるけど、よくよく読むと物語の大きな部分は全部端折ってあるんだよね。だから良いんだというか。

名作になり損ねた問題作「バイオレンスジャック」は、週刊・月刊マガジン連載部分だけだと間違いなく名作だと思う。漫画ゴラク版は壮大な蛇足を続けた挙げ句、まあやっぱりあってもいいかな、と思わないでもない。
僕はゴラク版単行本全31巻のうち、30巻までを買って持っていた。1994年当時池袋芳林堂では最終刊を売ってなかったのですよ、なぜか。
で30巻の終わり方はというと、決起軍の包囲攻勢に遭ったスラムキングが何もかも棄てて脱出し、「東で待つ者のもとへ」という予言に導かれていくと、遠くに佇むジャックのシルエット、キングは斬馬刀を抜く(二度と鞘に納めぬ決意で)というシーンで終わってるんだよね。それがいかに素晴らしい余韻を残したか!

数年後、完結31巻を読んで、たしかにあの謎解きはすげーっ!と思ったけど、正直30巻で終わってる方が幸せでした。とくに老人になった逞馬の回想でページを閉じる、という終わり方は最悪でした。

昨今の、何十巻にもなる長期連載ばかりの漫画は、永井豪先生の足の爪の垢を煎じて飲むべきだろう。あの至高のテンションの一瞬をめがけて突っ走り、最後は投げっぱなしにする永井豪先生はやっぱり天才でした。

デビルマン 全5巻セット 講談社漫画文庫

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時代考証の楽しみと、考証に突っ込む楽しみ

暢気な本を読もう、というときは、やわらかい歴史の本を借りる。考証家によるドラマ突っ込み本とかいいよね。

大野敏明『歴史ドラマの大ウソ』2010 

歴史ドラマの大ウソ

歴史ドラマの大ウソ

 


この人は産経新聞の編集長だったということで、考証のプロではないらしい。なので、一刀両断したつもりが、ときどき自分の足も斬ってる、みたいなことがある。

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Amazonのレビューでも突っ込まれてたが、「日本刀は二、三人斬ったらもう使えなくなる」という件。大野は「目釘が緩む」と言うのだが、緩まないように竹の目釘が使われている(金属の目釘だと緩むらしい)し、新選組池田屋などおおぜい斬った記録があるので、一概にそうは言えないと思う。

(そもそも一人が三人くらいを切る、というのは滅多にない、歴史に残る斬り合いなのだ。荒木又右衛門や堀部安兵衛が何人斬ったか、調べてみるといい)

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ドラマに突っ込む考証本って多いんだけど、なかなか難しい。たとえば「町は夜、木戸が閉まって、出入りするには拍子木で申し送りした」というが、これは三田村鳶魚が書いたのが広まっているようだが、浮世絵では町木戸がひとつも描かれてない、という矛盾がある。三田村鳶魚岡本綺堂も、案外ウソつきだ。自分は見てないのだから。

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本書の著者の突っ込みで面白いのは、「武士は笑わない・泣かない」「男女が一緒に食事しない」「正座は足の裏を見せない」「江戸のごく初期と最幕末を除けば大小には必ず柄袋」「言葉、とくに二人称が違う」「名前を呼ぶな」といった指摘が繰り返し出てくること。

武士は感情を表に出さない訓練をしてきた、ということだが、だから明け透けな感情表現をする龍馬像が新しかったんだなー、ということが逆に判って面白かった。
名前と二人称の件はほんとに難しい。あと「藩士」ね。「藩」は明治になってから使われるようになった、という説と、志士の間では新規な流行語として使われていた、という説の二つを目にする。どっちなんだ。
言葉づかいでは、「武士らしく感じさせるのなら『候』と『御座る』をうまく使え」という指摘はよかった。古文書は「候・御座る」文で書かれているけれど、僕はこれは言文一致ではなかろうから、こんな話し方ではなかったろう、と思っていたが、いまそれらしい雰囲気を出そうとするなら、こういう記述言葉を使うしかないのかしれない。

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というか、この人が必死に突っ込んでいるものとは、時代劇を作る側が「感情表現豊かな武士を見せたい」「リベラルな家族の武士を見せたい」と思って演出しているところなんだな、ことごとく。現代人の理想像が武士に仮託・投影されているので、話がややこしいのだ。

今風時代小説をたくさん読んで判ったのだが、今の読者は庶民が嫌いで、武士が好きだ。主人公は何が何でも武士でなきゃいけない。だから多くの場合「市井に暮らす武士らしくない武士」なんてのが主人公になっている。
(武士らしい武士を描くのが好きなのは、上田秀人かな。この人の考証は面白い)
また、武士が武士らしく男尊女卑や身分の上下にうるさいと読者は反感を持つので、型破りな武士が好まれる。春日太一が憤慨していた岸谷五朗の件なども、リベラルな秀吉とかそーゆうのが好まれると思って、らしくなくやっているのではないか。

「八重の桜」で「弟の仇討ち」と言っていたが、卑属の仇討ちはあり得ない。また、主君の命で戦に出て死んだのだから、それは天晴れなことであって、仇云々ではない。また、武士に向かって「死ぬなよ」とか声を掛けるのもあり得ない。命を惜しむのは武士の風上に置けない。「命どぅ、ゴミ」なのだ、武士は。

渡辺京二の本を読むと、一般庶民も命を軽んじており、さらに幕末くらいになると無神論が増えていた、とのこと。 

江戸という幻景

江戸という幻景

 

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ニーズとかマーケティングがあるから、考証の出鱈目が起きてる側面が大きい。というか、作者の側もリベラルで(現代)人間らしい武士がかっこいいと思っているから、こういうことになるんだろうな。

一番の問題は、多くの読者が「庶民が主人公の時代劇なんて読みたくない」と思ってるとこだと思う。150年経っても、いや150年経ったからか、武士が一番良いんだね、お前ら。ふーん。て感じ。

野村芳太郎・橋本忍「砂の器」再見

今見ると、野村芳太郎の映画ではなく橋本忍色が強烈。クレジットされているが山田洋次はたぶん全体の縮め方とかしんどい裏方をやったのではないか。とにかく本作は橋本忍作品。

<あの頃映画> 砂の器 デジタルリマスター版 [DVD]

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実は本作はトラベルミステリーなのだった。本庁の丹波哲郎は「土産を持って帰れずに悪いなあ」を連呼しながら出張を繰り返す。秋田・島根・伊勢・大阪。座っていく夜行列車の旅は辛そうだ。

原作は一度しか読んでないのですっかり忘れていたが、超音波殺人とかトンデモない挿話がある。そしてミュージック・コンクレートなどで時代の寵児となっている芸術家集団への嫌悪。連載は1960だから戦後20年を経ずして文化爛熟してたんだなあと感慨。

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戦災孤児に音楽の天稟があって、という設定だが、さすがにピアニストは無理があろう。その点、現代音楽はサンプリングだから無理がない。また原作者は、現代音楽のつまらなさ、虚仮威しを暗に批判しているように思える。音楽家と言っても虚名の音楽家なのだ。だから映画版のピアニスト兼作曲家とはニュアンスが異なる。

で、映画版は交響曲じゃなくてピアノ協奏曲だったんですね。すっかり忘れてました。

それにしても大仰で単調な曲で、劇伴としてはよい、とくにあの巡礼シーンの背景音楽にはぴったりだが、これ単体で聴いたら絶対寝ると思う。佐分利信(許婚者の父親・大物代議士役)が寝ずにちゃんと聴いてたのがすごい。

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映画は加藤嘉緒形拳が登場する後半回想シーンに信じがたいレベルにまで達する。原作を突き抜ける、ブレークオンスルー、トゥジアザーサイドである。
よくよく見ると全体にヘンだし辻褄の合わない映画なのだが、このパートの緊張は、劇伴のうねりも加わって、すべてをチャラにして宇宙の高みにまですっ飛んでいく力強さに充ちている。
Amazonのレビューもみなここを褒めており、「日本の風景の原像」みたいな褒め言葉も多い。だが、それって障碍者を忌避していじめぬいたことも含めての原風景なのだということを忘れるなよ。人間の記憶や思考は都合が良いものである。

加藤嘉は本当に熱演である。眼福、映画を観る歓びとはこのことだ。
丹波の刑事が訪ねていくのはどうも岡山県の長島の療養所ということらしい。

僕は大学のとき、橋が架かったばかりという長島を友達と訪ねたが、当然ながら橋を渡ることはできても療養所には入れなかった。失礼しました。
映画はその前に岡山でリバイバルで見たはずなのだが、ここが舞台とは忘れていた。原作で言及されたのは熊本の療養所だったような気がする。

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あの美しい回想シーン、実は昭和四十年代後半(撮影は1973)なので、戦中はあり得なかった田舎の電柱とか小川のコンクリート護岸とかが映り込んでいる。美しい合掌造りの村落が電線だらけなのが興を削ぐが、加藤嘉と子役の熱演がすべてをオッケーにしてくれる。彼等に若々しい緒形拳が対峙してドラマを作ってくのだから、もう最強である。このパートを創造した橋本忍の勝利だなあと。

松本清張中国山地の奥地の出だという。公式には福岡出身となってるみたいだが、エッセイで島根と広島の県境あたりに係累がいて、みたいなことを書いていた(作品名失念)。島根県が遠い舞台になっているのはその関係だろう。
僕の生まれも広島県の奥(彼と違って東部だけど)で、映画に登場するシーンには母方の実家そっくりの風景もある。軽自動車一台通るのががやっとの曲がりくねった砂利道、目の下の小さな田圃、畦道に咲く花とか。のどかに見えるが苛酷な山村だった。あの巡礼シーンは、とても凄惨なものなのだ。

【スープコンテナ向けのレシピ】芋を使わないポトフ

以下は2014冬のFacebook投稿を改稿して再掲。

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某日、スープコンテナにキムチ鍋の残りを入れて図書館に行って食べた。ちゃんと予熱して、保温バッグに入れてたのだが、やはり気温が低いからかアツアツというほどではなかった。

今日はポトフを入れてみた。久しぶりに作ったのだが、上手にできた。これまでポトフは失敗が多かったのだが、コツがあったのだ。

材料を大きめに切って、しっかり蒸らし炒めすればよかったのだ。今までは早々に煮ていたので煮崩れしていたのだ。

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ポトフだが、ジャガイモは使わない。皮むきとか芽むしりとかが面倒だし、間違って男爵を買うと煮崩れてしまうからである。その場合、ポトフといえば蕪だが、蕪は確実に煮崩れるのでこれも却下。大根でいきます。「おしん」を思い出す人、いるかな?

大根:6Pチーズくらいの大きさで、もっと厚く切る。皮はしっかり剥いておく。
人参:親指くらいの太さに乱切り。
玉ねぎ:ピンポン球くらいの容積に切る。根の芯は三角に切れ込みを入れて除去。
ベーコン:出汁を取るためのものなので小さく切る。大きく切ってしまうと、メインの具材と思って喜んでかぶりついてしまうが、味が抜けているので落胆する。
ソーセージ(シャウエッセンでしょ)はコンテナに詰める直前に入れて温める。

味付けはコンソメキューブとローレル、適当なハーブ。
コンテナに詰める前に分量をソースパンで温めるとよい。ここで味付けを直すこともできる。チアシードを足し、胡椒を挽く。小指半分ほどのスモークドチーズを入れてもいい。食べる頃にはとろりとなっている。

大根は匂いにくさみがあるが、味は美味い。シチューやカレーの具にも使える。安いし!

「不知火検校」が好きなんだが、人には言いづらい(2014のものに追記)

僕は勝新太郎が好きなのだが、とくにこれは好きだ。「不知火検校」。

不知火檢校 [DVD]

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どうして好きかというと、「盲人を不気味だと思う健常者の気持ち」が描かれていたからだ。

僕は佐村河内守の一件も好きなんだけど、あの騒ぎの頃、な~んとなく連想したので、この映画を借りて観た。(いまAmazonでは高騰してるが、大きめのTSUTAYAならレンタルできる)

これ、井上ひさしの戯曲「薮原検校」(1971)とそっくりな話なんだよね。まあ完全互換といってよい。
ちなみにこの映画は1960らしい。
そして、「不知火検校」は歌舞伎の演目にもなっている。最近も幸四郎がやったらしい。やっぱ幸四郎すごいな。
もともとは三世河竹新七の「薮原検校」が下敷きというから、そっくりなのも無理もない。

ただし、井上ひさしはあとがきか何かで「薮原検校は初代は知っておりましたが二代がいるとは知りませんでした、と研究者に言われて慌てた」と書いているらしい。
これはその学者先生が不勉強すぎるのか、当てこすりなのか、井上のホラなのか。そもそも井上の「薮原」の前に勝新の「不知火」が大ヒットしてるんだしな。

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この映画、どこまで考証してるか知らんが、座頭の所作など非常に面白い。

いま僕は身近に障碍者の知り合いがいないので、そういった所作になじみがない。なので、こうして映像で見せられるとぎょっとしたり、感心したりする。勝新がこれを演じた頃は、按摩さんといえば盲人だったり、門付けの人がいたりしたのだろうか。

「耳の聞こえないクラシック巨匠詐欺」が成立してしまった背景には、僕らは障碍者を隔離してしまい、無用な先入見を持たされてしまった、ということがあろう。
障碍者全員が善人なわけないし、乙武くんみたいに明るいわけでもない(乙武くんだって常時明るいわけじゃないし……と思っていたら2016には性豪としてキャラ転換して驚いた)。

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ダイバーシティというと、多様性を受け容れましょう、とか意識高い感じのお題目をつい唱えてしまうが、そういうことかなぁと時々不審に思う。そんなことより、障害者や外国人や、その他いろんな人と知り合いになりてえな、と思う。

以前、公園で野良猫を鑑賞?する仲間に、知恵遅れの女性がいた。猫の一匹一匹をよく見分けて、喧嘩して怪我してるだの、体調が悪そうだだの、よく観察していたのに感心した。最近は見かけないのだが、引っ越しでもしたのだろうか。

平日昼間の公園は、幼稚園児が集団で来てたり、老人が日向ぼっこしたりしてる以外に、障害者とボランティアが連れだって散歩していたり、いろんな人を見かける。それを見ている僕も含めて「弱者」が多いのが平日昼間の公園だ。そして、お互いを少しずつ「不気味」だと思っているのが面白い。だがそういう先入見は、挨拶やちょっと言葉を交わすだけでもだいぶ変わる。

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「巨匠詐欺」の場合、実は耳が聞こえてたんじゃん、金返せ、という人が出てきたら面白い。そっちの方がより真実に近いからだ。
僕は交響曲なんて、どうでもいい。

(※2014に書いたFacebook投稿に加筆して転載した)

シャルリエブド事件の頃、こんなことを考えていた(2015記す)

以下は、2年前ににFacebookに書いていたことだ。すっかり忘れていたが、再掲する。イスラムへの幻想的期待は相変わらずあるみたいだし、こちら側の頭も硬直化して、状況は余り良くない。

−−−−−−−以下、2015/2/11記す−−−−−−−−−−−−

ある人がブログで「イスラム教は、身分差別を許さない一神教世界宗教」としてこの本を薦めていた。

イスラム―癒しの知恵 (集英社新書)

イスラム―癒しの知恵 (集英社新書)

 

本書は近代の世俗主義国家システムを批判して、諸問題の出口はイスラム主義にある、という。タイトルの通り、イスラムに帰依することで「癒やし」を得られ、それが問題を解決する、という。

今起きている問題は、西欧的な近代(日本ももちろん含む)とイスラム主義には、決定的に相容れない核心部分がある、ということなのだが、この著者は、日本的な曖昧さならイスラムの良いとこ取りができる、みたいに読める(たぶん誤読だが意図的かもしれない)ような本になっている。

こういうのや、「利子を取ってはならない」イスラム金融とか、他宗教に寛容だとかの言説が称揚され、行き詰まった西欧的近代をイスラムなら超克できる、みたいな言い方がされているが……。

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「身分差別を許さない」というのは、もしかすると、絶対的な権威者が存在せず、「原理的には、あらゆる信者が『コーラン』とハディースに立ち帰って宗教的規範を判断できる」(池内恵イスラーム世界の論じ方』p093)といったことを指しているのかも知れない。でもこのせいで、ISやアルカイダの経典解釈は間違ってる、ときちんと言うことが出来ない、彼等にも一定の理がある、ということになってしまっているのだ。

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イスラム教は、構造的に暴走を抑止できないようになっている。

コーラン』2章256節に「宗教に強制なし」と書かれているそうだが、ここより後ろに「異教徒との聖戦を命ずる」と書いてあるという。神学解釈では、後ろの方が新しく、前の文言は更新されて無効になるらしいのだが、聖戦を批判する異教徒に対してイスラム教徒は前の文言を提示して「イスラム教について無知だ」と論難し逆襲する、別の時には後ろを根拠にして聖戦を主張する。論点ずらしの論法が常なのだという(池内『中東 危機の震源を読む』p158)。

こういう二枚舌は神学にはありがちで、他の経典宗教や仏教にもないわけではないと思う。だけど、近代世俗国家の中で認められた宗教は、いずれも世俗の人間が批判することが許されている。というか批判を許容することで、世俗社会の中に宗教の居場所が認められている。

ところが、イスラム教は無謬であり、神の言葉を訂正することは許されず、世俗からの批判も受け容れない。ここが問題なのだ。

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無謬なものはない、システムそれ自体を疑え、というのが近代的な世俗主義の原則なので、批判することによってシステムを点検強化していく。批判とかパロディが言論表現の自由として許されるのは、自我の発露や放埒の自由ではなくて、システム(社会)をより良くするため、悪くしないためのフェイルセイフ機構なのだ。

無謬なものがある、それは侵してはならない、とする社会は、ダメになる。北朝鮮もそうだし、イスラム主義も例外ではない。

(だから朝鮮高校にあの国の指導者を批判する自由があると認められない場合、日本の公金を与えることは原理的にできないのではないか)

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他宗教に寛容、という触れ込みも実は、一神教であるユダヤ教キリスト教は、イスラム教社会の中で二級市民的存在として認める、もちろんイスラム教に改宗する自由はある(なんと寛容なことか)、だけど当たり前だけどイスラム教から抜ける自由はないからね、それは人間をやめることと同義だから、というものにすぎない。もちろんここに多神教アニミズム信者の居場所はない。改宗するかこの地から立ち去るかしなくてはならない、というのが経典的な原則だ。

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シャルリエブドの下らないパロディ画は僕だって嫌いだが、あれはフランスにいるイスラム教徒に向けたものなのだから、僕が口を挟むもんでもない。まして「あれは言論の自由の濫用だ、あれはダメだ」というのはお門違いだ。フランス人にしてみれば、ああやってフランスのイスラム教徒に対して「一緒に共和国を作ろう」と呼びかけているのかもしれないし。

(だとしたら失敗した呼び掛けになるわけだが。だけど議論のチャンネルを力で破壊したテロはもっと失敗だし「言論の自由にも限度がある」なんて日和見は言語道断だ)

「日本人はイスラム教にも寛容な多神教の文化を持っている」なんて暢気な言説がある(ように僕には見える)けど、これなんか当のイスラム教徒にしてみれば大矛盾の夜郎自大もいいとこ、なんではなかろうか。

 

−−−−−−−−−−(以上、再録終わり)−−−−−−−−−

この頃は池内恵など読んで一所懸命勉強していた。今は守貞漫稿なぞ読んでいる。耄碌したものだ。

今の新聞は、現実を記事にしているのか?……宮古島市長選の記事を読み比べた

ちょい古い話になるが、先の年末年始は宮古島に居た。正確には、宮古の隣の伊良部島。今は伊良部大橋で往き来できるので便利だ。離島感がしない。

ある日、伊良部大橋で宮古側に渡ると、橋のたもとで幟を振って、通行する車に手を振っている人がいた。のぼりにはひらがなの人名。どうも、年明けにある宮古島市長選挙の事前運動らしかった。誰だったかは忘れたが。

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以下は、朝日新聞報ずる宮古島市長選の概要。

www.asahi.com

これをあらあら要約すると、「辺野古その他で政府と対立する翁長県政が支持されるかどうか」「ミサイル部隊など陸自配備計画の是非」が最大の争点、と読める。

だが僕には違和感があった。どうも、陸自の配備は宮古島市民の間ではあんまり話題ではない感じなのだ。

たしかに陸上競技場の近くには「自衛隊配備反対」の立て看や捨て看を見かけた。だがあの辺りには沖縄県職員組合の事務所?があり、そこが立て看の中心地なのだ。県教組は必ずしも宮古島出身者で構成されているわけではない。

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次に掲げるのは、開票翌日の、現職3選を伝える沖縄タイムスの記事。

www.okinawatimes.co.jp

あらあら要約すると、「争点は自衛隊配備だったが、大型建設事業での利益誘導を掲げる現職が僅差で勝ってしまった」という処か。

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最後に掲げるのは、宮古島の地元紙・宮古毎日の記事。これは投票前日「4陣営が打ち上げ」をした、という運動期間中の総括だ。4陣営、という、つまり保守も革新も2つずつに分裂した奇怪な選挙だったのだ。各陣営のスタンスをコンパクトにまとめてある。

www.miyakomainichi.com

これ見ると、「自衛隊」を言葉にしているのは「オール沖縄」候補1人だけ。残り3人は自衛隊という言葉すら使ってない。

候補のうち1人は「自衛隊配備反対」を訴えたが、他の3人は違うことを訴えていた、ということではないのか。つまり宮古島市民にとって切実だったのは、「自衛隊配備とは違うこと」ではないか?

(※ちなみに宮古島には地元新聞が「宮古毎日」「宮古新報」の2紙ある。本島に「沖縄タイムス」「琉球新報」が並び立っているのと似ている。でもスタンスは本島ほどガチリベラルではないようだ)

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遠い南の島の選挙、報ずるメディアが内地に近くなればなるほど、現地の空気とは違うものが、現地のリアリティとは違うものが記事にされてるような気がする。

翁長知事は本島や東京大阪では大人気だが、宮古八重山などの離島では人気がない。東京大阪の新聞には、「沖縄」というと「=翁長県政」と見えるかもしれないが、そんなの関係なく日々を送っている島民が大半なのだ。

本島の人たちの、素で平和を希求する感じは尊いと思うが、一方で、JALANAの飛行訓練がなくなって大不景気になってしまった伊良部島を見ると、かつて下地島空港自衛隊を誘致しようとした旧伊良部町議会の気持ちもわかるのだ。

(※この決議は後に否決されている。また民間機訓練終了と決議は時系列が違う。伊良部島は大橋開通で宮古からの観光客が激増して飲食店はバブル的景気になったりした)

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政治の実際とか、民情とか、経済とか、すべては白黒で割り切れたりしない。グレーゾーンの中で調整や妥協を積み重ねるのが現実のはずだ。だがTwitterで「#宮古島市長選」を検索すると、争点は自衛隊配備一点、という感じになってしまっている。

twitter.com

内地の新聞はめんどくさい現実を、わかりやすい二元論に還元し、わかりやすい構図で見せてくれる。内地の新聞はたしかに面白い。面白いが、それは島の民情とはかけ離れている。プロレスなら見て面白ければそれでいいが、島の現実をプロレス的に報じるのはどうなのか。

それに踊らされる内地の人々…Twitterのように限られたソースだけで見ている人々は、もう現実の島民とはまったく関係ない〝幻の宮古島〟しか見てない気がする。

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MXテレビの番組「ニュース女子」が「沖縄ヘイト」言説を放映した、という話題が盛り上がっているようだ。僕はテレビを見ないのでよく知らない。

「沖縄ヘイト」という言葉の他に「構造的沖縄差別」という言葉もあるのは知ってる。

だけど、島の選挙の争点を勝手に「自衛隊基地の是非」にしたりするのも、「構造的な沖縄への偏見」ではないのか。

とくに内地の新聞は、社論に合わせて現実をかなり角度をつけて切り取り、トリミングし、全体像からはまったく違う画にして見せているような気がする。

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新聞が事実を報じずに、売れる記事、ウケる記事、ポスト真実、オルタナ事実を書いているのは、まるで戦前みたいだ。と思いますが如何。

(※このエントリは篠原章先生のFacebook投稿にインスパイアされて書きました。)

沖縄の不都合な真実 (新潮新書)

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