新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

少子化の原因は…回り回って…日本会議のせい!? 藤沢数希と菅野完が合体した(僕の中で)

 藤沢数希の「少子化の原因は、日本の結婚制度の欠陥にあり」をたまたま読んで感銘を受けた。

下記は、それを転載しているブログ。本来はフォーサイトの会員向け記事なので無料で全部は読めない。

blog.goo.ne.jp

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藤沢は、「日本の少子化問題は、結婚という金融商品の欠陥が大きく関係している」と云う。
そして、「金融商品に例えるならば、女性には、金持ち男性と結婚して子供を作る、という非常にめぐまれた選択と、誰とも結婚せずに生涯子供を産まない、という選択のふたつしかなく、その中間の選択肢がほとんどない」と結論する。

 フォーサイト連載「結婚と離婚の経済学」は大変面白そうなのだが、フォーサイトだから無料では読めない。以下に目次が上がっていた。面白そうだ。一番最後のエピソードは全文読めるようだ。

www.fsight.jp

 フォーサイト連載は今月新書になるらしい。 

損する結婚 儲かる離婚 (新潮新書)

損する結婚 儲かる離婚 (新潮新書)

 

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身も蓋もない話だが、真実だと思う。
この選択肢を狭めているのは、「子供は夫婦で作るもの」「家庭があるのが一番」「夫が養い、妻が家庭を守る」といった数々の先入見だと思う。ミソジニーもその一つかも。
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僕は藤沢数希が嫌いなのだけど、彼の理屈はどうにも否定できなくて困る。また、すべてを金融商品に喩える彼の書き方は、カネという比喩で何もかもいったん価値を平板にして比較するので、実は先入見を排除できてフェアだ、ということに気づいた。
本当に愛があれば、既婚者だろうが貧乏男だろうが迫って子供を作ってしまえばいいのだ、事実先進国で女性が稼げる国では婚外子がどんどん増える、という。日本では女性の所得が上がっている(相対的なものにしても)のに、婚外子は増えない。
これはつまり、子供を作るということを家庭や結婚とセットにしてしまう理想像・道徳律が悪い、ということだ。
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つまり、日本会議のような、夫婦別姓や庶子の権利に反対し、〝伝統価値〟を喧伝するやつが悪いのだ。

ほんとはオルタナ伝統のくせに。ウソツキ神道なんて滅んでしまえ。いや、心配しなくてもあなた方が意図せず推進している少子化で滅びるわ。

ということで、ここでやはり僕が嫌いな菅野完の主張に接続されてしまう。困るなあ。

盛力健児『さらば、愛しの山口組』感想(2014記す)

以下は2014.02.09にFacebookに投稿していたものです。

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鎮魂 〜さらば、愛しの山口組

鎮魂 〜さらば、愛しの山口組

 

大変面白い本だった。こんな本を出せるところに宝島社の凄さがあるんだな。残念ながら僕がいた会社じゃ無理だろう。

関西弁の語りくちがよく、美しい文章だった。構成も非常に練られている。
三国志演義を思い出した。とくに後半の、関羽張飛が死んでいくあたり。悲劇なんだな基本的に。

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読んでいくと、著者周辺の大物たちが続々と鬼籍に入っていく。殺された人もいるが、肝硬変が多い印象。がん、脳血管障害もいるが、それよりも不摂生で若くして病気になってる人が多い。著者は頑健で服役中も体を大事にしていたようだ。

読み終えると、結局、トップに君臨することが本当の勝利なのか、よくわからなくなる。司忍六代目もどうも傀儡化してるみたいだし。そんな苛烈な権力闘争をやってると早死にするのも当たり前だ。何百億貯めたって意味が無い。

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興味深いのは、「大義」がボールのように行ったり来たりすることだ。
渡辺五代目は宅見若頭に傀儡化され、「当代への忠誠」を大義として中野会に宅見を殺させた。
そこで大義の在処が殺された側に移るのである。司若頭は宅見組二代目入江禎を連れて「親の仇は取らなあかん」の一言で大義はこちらにあり、と宣言して渡辺を追い込む。なんだか将棋のようである。

著者は自分の大義を「田岡の親分と田岡家」「山健の親父」への忠誠に置いている。これは動かない。だから著者のスタンスは揺らがない。歴史を書く側の特権だな。

読み所が多い。中部国際空港の利権で司忍は経済力をつけ、権力を奪取したとか。刑務所に行くことの“勲章”と“デメリット”とか。冷静に比べるとデメリットの方が多いのだが、だから誰もが服役を避けるようになると、服役を恐れない者が服役を恐れないというだけでメリットを受けるようになる。ゲーム理論みたいである。

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山健組は安原会の伝統を汲むという。『仁義なき戦い 代理戦争』で安原政雄に扮した遠藤辰雄はじつに名演であった。

正史の三国志を書いた陳寿は蜀の人だった。そして三国志演義の主人公は劉備たちである(演義は正史ではないけど)。

広島抗争の正史は広島県警『暴力許すまじ』、中国新聞社『ある勇気の記録』なのだろうが、僕らが記憶しているのは美能幸三の手記による飯干晃一『仁義なき戦い』である。ところで産経新聞社は『極道ひとり旅』(これは美能幸三の単著)電子書籍にしてくれんかな。
で、本書はこれから山口組抗争史について誰もが参照する文献になるだろう。歴史は敗者によって書かれたものが残っていくのであるなあ。

都知事選は終わったが、本当に舛添が勝ったのか、僕にはよくわからない。彼はこれから大変な権力闘争に晒されるのだ。一年もつのか、どうも怪しく思える。

 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−再掲ここまで

前々回の都知事選って今頃やってたのね。で、舛添は2年半で失脚したのか。

権力ってすごいね。

今更ですが佐村河内守一件が僕は好きだ

3年前に書いていたFacebookの投稿を転載する。

ここで引用したなかに池田信夫のブログエントリ「『作家』の消失」があるが、音楽家にかぎらず小説家も最近は消失しているらしい。

商業作家が一堂に会してその場で競作、というイベントがあったそうだ(食い詰め作家のノベルジャム参戦記)。北斎が大きな紙に達磨を描いたりするやつなら見応えがあろうが、これは見世物になるのかどうか。連歌師とかのノリなのかなあ。

いずれにせよ、作家が作家先生でいられた時代は済んだのか。佐村河内守は、今風に云うと「交響曲作曲家」をセルフブランディングしたのだろう。もちろんセルフブラ云々には演出も許されるよね。僕は好きだ。

 

以下、2014年2月8日のFacebook投稿から−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

週刊文春」二月十三日号の佐村河内記事は読み応えがあった。詐欺事件に関してはもうネットにも情報が溢れているけど、ネットに転載されていない地の文が面白いのだ。
----------(以下、引用)
 私(筆者:記事を書いた神山典士のこと)は、一三年一月に『みっくん、光のヴァイオリン』という児童書を上梓した。そのオビには、みっくんの師とされた佐村河内の写真を掲載し、言われるままにそのコメントも書き込んでいる。当時、私は佐村河内の嘘にまったく気がつかなかった。言わば、善意の被害者だが、読者からすれば「共犯者」である。(同誌p026)
----------(引用ここまで)

率直だと思う。また、この一文は、佐村河内を絶賛ないし評価した文化人、NHKスペシャルや「金スマ」への批判になっている。

----------(以下、引用)
 この頃佐村河内は、シンセサイザーを駆使して簡単な作曲をしていた。
 対する新垣はこの頃、母校である桐朋学園大作曲専攻の非常勤講師として、初めて専門の音楽で定職を得たところだった。普段は町のピアノ教室やヴァイオリン教室の発表会の伴奏をしたり、レッスンの伴奏をしたりして糊口を凌いでいる。少年時代には、ピアノでプロのヴァイオリニストと共演し早熟の天才と呼ばれたこともあったが、音大の作曲科に進んだ時点で、「卒業したら失業者」を覚悟しなければならない。一般人には理解しがたい不協和音を駆使する現代音楽の作曲家である以上、その作品が日の目を見ることは本人ですら想像できないのが、日本のクラシック界の現実だ。(p027)

 むしろ、大学卒業後一年間研究室に残ることができ、二十五歳で非常勤講師の職を得られたことは、編曲家になったり音楽事務所に勤めたりする同級生たちとは違う、音楽の王道に踏み出せたことになる。たとえ大学から得られる報酬は月に数万円であったとしても、その環境をよしとしなければならない立場だった。(p027)

現代音楽の世界では、自作の曲を人に聴いてもらおうと思ったら、自分でホールを借り、演奏家を頼み、交通費を払って練習場も確保して、やっと一日だけ、親戚や仲間が集まってくれる市民会館程度のところで演奏するだけです。しかもその楽曲がCDになるとか、メディアで批評してもらえるとか、そういうことはほとんど想像できません。(p028)
----------(引用ここまで)

クラシック音楽というと、僕らはバッハ、モーツァルト、ベートーベン、ブルックナーやらショスタコービチを連想するけれど、どうも日本のクラシック業界というのはそういうのと関係ないようだ。
いや、コンサートではこれら古典作家の作品でないと客が入らないから、〝演奏家の業界〟では大事にされている、と言うべきか。〝作曲の業界〟が不可思議なのだ。そもそも「卒業したら失業者」ってなんなんだ。
ここら辺の事情をコンパクトに説明したのが、下記の池田信夫ブログなのだろう。

ikedanobuo.livedoor.biz


クラシックは「古典」の意の筈だが、その業界で行われているのが「前衛音楽」だったり「現代音楽」だったりする奇妙さを、今までそんなに気にしたことがなかったのだが、実は物凄い矛盾が横たわっているような気がする。

現代美術も、便器を「作品」としたり「梱包芸術」とか田圃に傘を並べたりしてるのを冷静になって見れば、何だか失敗したギャグみたいにしか見えない。モンティパイソンのスケッチと現代美術の違いを正確に述べることは可能なのだろうか?
音楽にも美術にも、こうなってしまった事情とか蓄積の歴史はあるのだが、鬼面人を驚かす類いの現代芸術は、それそのものをじっくり見るとまったくナンダカナなものばかりだ。

ハーモニーを持った古典音楽風の曲は、映画音楽など伴奏音楽としてなら広い市場がある。フィリップ・グラスはタクシーの運転手もしていたが、たくさんの映画音楽を作っており、それらのCDはたぶん「イクナトン」「海辺のアインシュタイン」よりずっと売れている。武満も伊福部も映画の人、というのが普通の人の認識だろう。僕だって伊福部の作品はサントラしか知らない。

「調性音楽」には市場があるのに、クラシック業界の本業の人たちは「現代」だとか「前衛」しかやらないので、昔風の「交響楽」の新作市場はぽっかりと空洞になっていた。松本清張は『砂の器』には「交響曲“宿命”」を書いていない。そんなもの作る作曲家はいないし、そんなコンサートはあり得ないからだ。
そこに佐村河内が「交響曲第1番」を〝売り出す〟チャンスがあったというか。


ネットでやりとりされる不確かな情報に、「佐村河内は創価学会とつながりがある」というものがあった。彼がメジャーになる機会を得られたのは創価学会の人脈のおかげだろう、というのだ。池田大作の口利きを無視できる大手メディアはあまりないのは確かだ。

僕は、それがカルト宗教だろうと、口利きやごり押しは全部いけない、とは思わない。素晴らしいものであれば、誰が口利きをしたって価値はあるし、ゴリ押しで世に出ることもあって良いと思う。創価学会のお墨付き、けっこうじゃないですか。
しかしそれは、「この作品には価値がありますよ」という保証、裏書きになっていればこそ、の話だ。世の多くの「口利き」「ゴリ押し」「コネ」は、価値がないのに機会が与えられ、価値がないのに「大舞台に登場したのだから価値がある」という本末転倒が起きているから、問題なのだと僕は思う。

タッキー主演の大河ドラマが実現したのとか、〝創価学会の威力〟なのだろうが、それは結果的に〝創価学会のゴリ押し物件は屑〟という評判にしかならなかったわけで、自身の推薦力・品質保証力を大きく毀損してしまった。残念なことである。
山本リンダとか素晴らしい歌手なのだから、リンダに匹敵する才能だけを推薦してくれればよいのに。

佐村河内を賞賛したとして五木寛之許光俊のコメントが晒し者にされている。五木寛之は、古謝美佐子とかいろんなアーティストを自分の講演会で歌わせてメジャーにしてきた。鑑定眼、品質保証力があると思っていたのだが、残念なことである。

僕は〝キュレーション〟という言葉があまり好きでない。本当に鑑定力のある人はTwitterでキュレーションなんてやらないと思うし。佐村河内という〝地雷〟を仕掛けたのは一人か二人の黒幕かもしれないが、それを〝大きな爆弾〟にまで育てたのは、日本全国のアキメクラどもなのだ。自伝を読んで面白いと思った僕もその一人だ。佐村河内氏の人生、自伝ほど面白くないのが残念だ。

 

以上、転載終わり−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

などと3年前は暢気に書いていたわけだが、これだけ噓ニュースとパクリが増殖すると、目利きにもいちいち峻別はできない。最近は新刊書籍もWikipediaの間違いをそのまま載せたりして信用できないわけで、ネット以前、ざっと1999年以前の本ならまあまあまともかな、と思ったりします。

宮古島の伝説の屋台「サムライキッチン」の思い出

宮古島、ホテルアトールエメラルド向かいの駐車場の隅に、いまでもバラックが建っていると思う。

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いまGoogleストリートビューで見てみると「宮古そば」の看板が出ているが、もともとは「サムライキッチン」の跡地だ。

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サムキチこと店主のはたぼー(本名ハタノ君だそうだ)は、この駐車場の隅にライトバンを停めて屋台を始めた。駐車場の隅で赤提灯が風に揺れる屋台は妙に酒飲みの吞みたい心を刺激し、繁盛した。

やがてどこからか資材を調達し、仲間と力を合わせて恒久的なバラックを建てた。これが今も残るバラックだ。中はキッチンが大きめで、複数の料理人が働きやすくなっている。「サムライキッチン」の主力は韓国料理で、七輪の焼き肉と当時はあまり目にしなかったPETのマッコリが美味かった。

 

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はたぼーは、駐車場から下里通り(平良の目抜通りの一つ)に越して、今度は居酒屋「南国酒場フジヤマ」を始めた(写真はストリートビューで「この辺だったかな?」という曖昧な場所。下里通りです)。フジヤマは焼酎・日本酒主体の和風というかトラディショナル赤提灯居酒屋であった。彼の出身地・丹波の食材や酒が置いてあった。

 

hirokouji.ti-da.net

※上記のブログは、宮古島の飲食店を本音で紹介してる。こちらのブログ主さんとフジヤマのカウンターで出くわして、「ブログ楽しみにしてます」と云ったらほんとに奢ってくだすった。ごちそうさまでした、キョー兄ィ。

 

はたぼーは、一時はさらに中華?の店も経営し、移住ナイチャーの立志伝中の人wとも言われた。
僕はサムキチ時代によく飲みに行った。ふだん焼肉やマッコリはやらないのだが、なぜか宮古島でばかり焼いて飲んでいた。美味しいし、気のおけない、観光客にもジモティにも人気の良い店だった。

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はたぼーには持病があった。白血病とのこと。だが奇跡的な寛解をみせ、結婚して一児をもうけた。
彼がフジヤマその他を閉めたのはいつだったか、2年くらい前かな? 病気を治してる、と聞いていた。
今朝になって知ったのだが、この1月10日に亡くなられたとのことだった。

 

※下記のブログエントリのコメント欄にご友人が投稿されている。

ameblo.jp

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もう一度、彼の店で飲むのを楽しみにしてたのだが。

メメントモリ
死があるから生が輝くのだ。

はたぼーの店で過ごした時間は本当に楽しかった。ホテルセイルインから、暗い西里の坂道を海岸通りへ下っていくのはいつも楽しみだった。店の裏には大きなフクギの木があって、横の道には大きなフクギの実がぼとぼと落ちていた。ビーチサンダルでこれを踏むと僕は転んだ。

ここ数年は宮古島本島?に泊まることが少なくなり、伊良部島で吞んでいたので、フジヤマには二回ほどしか行ってない。惜しまれる。

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今日は東京では畏友ががんの手術を受ける。成功を祈っている。成功するに違いない。そしてまた会おう。
メメントモリ。それを忘れずに。

映画「沈黙」を隠退・隠遁評論家的に観てみた

昨日は「沈黙」を朝イチで観てきた。
大変幸せな3時間、こんなに物静か、かつ流暢な、スムースな映画を撮る人だっけスコセッシは?と驚いた。とても気持ちいい緊張が持続する、快感に満ちた映画だった。周りのみんなもしーんとして、映画を観る喜びに満ちて観ていた。暗〜い拷問の映画なのにね。CGが控え目なのも嬉しかった。きらびやかなCG見ると白けるんだよね、歳だから。

〽︎映画を観ながら泣くのも大事なことのひとつ(戸川純

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以下【ネタバレ】含みます。

イッセー尾形の演技が大変評判だが、僕は奉行所与力が気に入った。おのれを殺して奉行に仕える、忠義を尽くす様子が良かったし、拷問に当たっては、やってる側も痛みを感じないわけはないのだが、葛藤を強面で押し隠す様子が伺えた。これが武士なんだよね。

ただ、奉行所の下役・現業の人たちは武士ではなく、歴史的に云うと長吏非人である可能性があるのだが、さすがにそこまでは再現されてはいない。日本人でもそこまで考証することはないからなー。

でも、とにかく時代劇として良かった。最近は「超高速参勤交代」のようなパロディしか作られないから、ちゃんとした時代劇を観られて嬉しい。

前半の山場、トモギ村が良い。塚本晋也は目立ちすぎだなーと思うが、彼含む村人たちのゴツゴツした面構えがリアリティを支えてくれた。村人#1こと吾らがPANTAの存在感に至っては青木繁「海の幸」を連想させた。

この映画、すごい風格があって名画なんだよね。藤田嗣治戦争画とか、あるいはゴヤのような重厚な画面が続く。

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リアム・ニーソンの転び伴天連フェレイラ最高。僕は原作小説を読んだとき、ル・カレのスパイ小説やグレアム・グリーンの心理スリラー小説を強く連想したのだけど、イッセーとニーソンに責めたてられる若い主人公など、まさにル・カレ的と思った。ル・カレは尋問が大好きだしね。

何より、ル・カレのテーマというのはつねに「二重スパイ」なのだが、フェレイラと後のロドリゴはまさにそれになったのだ。設定では通詞の浅野忠信も、イッセーの井上筑後守も、実は元切支丹らしい。彼らも二重スパイなのだ(井上政重の史実はようわからんが)。弾圧する側だが弾圧対象を知悉し、どう責めれば効くかの研究に典礼書まで読み漁る情熱がある、〝カーラ〟や〝スマイリー〟のような人たちなのだ。みんな異端審問官ベルナール・ギーの血を引く人たちだ。

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作中、唸ってしまったのは、「真理(キリスト教)は普遍だから世界中に広めるのだ」とロドリゴが云う、だがフェレイラが「違う」と反駁する、これがまるでグローバリストと反グローバリストの問答のように聞こえてしまった処だ。

映画が撮られたのは2015だが、今は2017、連日トランプ大統領のニュースが取り沙汰される、反動的な、アンチ普遍主義の時代だ。何という先取り。

そうなのだ、現代は「(神という)真理は普遍でも不変でもない」とバレてしまった時代なのだ。世界の辺境あちこちから普遍主義へノーが突き付けられている。六角のネジは宇宙のどこで作っても同じ形になる、それは物理学だからだ。神学はそうか?心理学ですら普遍性というと怪しいレベルだ。社会学だって。人類学に至っては。

井上政重や通詞の云ってることが、実は今でも正しいのでは?という恐ろしい想念に取り憑かれる。原作小説は主に九州地方のカトリック社会では忌まれたらしい。恐ろしい真実を突いているからではないのか。

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原作では改宗した後のロドリゴを直接描写せず、擬古文の「切支丹屋敷役人日記」で読者に匂わすにとどめている。映画はそれをはっきりと映像化しているが、そこも良かった。【ネタバレ】考慮せずいきますよ。

『沈黙』覚書 「切支丹屋敷役人日記」と「査祅余録」」という論文がある。リンクボタンにしていますが、これ押すとpdfのダウンロードが始まるので注意してください。

これ、宮尾俊彦さんという方が1981に長野県短期大学紀要に書かれた論文なんだけど、原作小説末尾の「切支丹屋敷役人日記」と、そのパクリ元である「続々群書類従」第十二所収「査祅余録」を比較して、どこをどう改変して「沈黙」エピローグとしたか、詳細に検証している。すごく面白い。

ロドリゴのモデルはイタリア人司祭ジュゼッペ・キアラ(岡本三右衛門)。42歳で棄教し80歳以上まで生きた。キアラに仕えた角内という小物がキチジローに相当する。角内は越前の人で、吉次郎と違って五島から付き従ったのではない。小説や映画では吉次郎の最期は描かれないが、角内は切支丹信仰が露顕して屋敷の庭で殺された、とはっきり書かれている。

論文の著者は、遠藤は周到に原文を書き換えてテーマを明らかにした、と褒めているが、僕は同意できない。原文は報告書(公文書)ナノデ、何が起きたか、処置はどうだったかがきちんと書かれ、対応関係がある。だが小説の「日記」は対応関係がきちんとしてなく、吉次郎の処置など当然触れられるべきことが書かれていない(隠されている?)ので公文書としての体裁が整っていない。辻褄が合わないのだ。

「日記」では、ロドリゴは吉次郎に信仰を持たせ続け、さらに屋敷の役人をも折伏したようなことが伺える。切支丹屋敷、すなわち強制収容所の中でキリスト教が跋扈していたのである。これはなかなかサスペンスである。

また作者は、ロドリゴの死因は自然死ではなく、何か人為的な死を匂わせているのではないか。ハンガーストライキとか。だもんでキアラより若くして死んだのではないか。

文京区小日向の切支丹屋敷跡から、最後の転び伴天連ジョバンニ・シドッチの遺骨が発掘された。シドッチと判明したのは2016。シドッチは屋敷の世話係夫婦を折伏(というか十字架を与えたらしい)したのが露顕して屋敷内の地下牢で牢死した。なんと映画や小説のようなことが実際に起きていたのだ。

そして、なんと火葬ではなく身体を横たえた遺骨なので土葬である。映画のロドリゲスとは違う。なんということか。シドッチはキリスト教徒として葬られたのか?

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映画では、棄教後のロドリゲス(映画だからこう呼ぶ。ロドリゴは姓ではなく名、作者のミスだ)がしっかり描写されている。輸入品の中にキリスト教の意匠が隠されていないかの検閲に従事する。ここで師フェレイラが見落とした(見逃した?)隠し画を見つけたりして、優秀な査察官であることを匂わしている。そして死んだ日本人の妻子を娶り、縁もゆかりもない日本人親子と家族として暮らさせられた。

「日記」によるとロドリゴの享年は64とのこと。年老いた妻が、ロドリゲスの座棺にこっそりと〝ある物〟を忍ばせたとしたら、彼女自身が切支丹であったかどうかはわからないが、棄教者ロドリゲスの後半生には良き理解者・伴侶…共犯者がいた、ということになる。

なんと幸せなことか。

僕は、映画の結末で、この名も明らかにされぬ岡田三右衛門妻の心持ちや覚悟を思って、戦慄したのだった。

棄教後の彼についてはいくらでも書けるが、ここら辺で一旦やめとこう。実は、棄教するまでの彼の人生が、彼にとっての最大のドラマ、栄光の時、花のような光差す時間なのだが、人生の真実は棄教後の地味な後半生にあるのだ。

 

※論文「『沈黙』覚書」のリンクが間違っていたので修正しました。

首相答弁の「でんでん」を笑ってはいけない

総理大臣が国会の答弁で、原稿を読んでて、「云々」のところで「でんでん」と読んでしまったそうだ。

僕は又聞きというかネットで読んだだけなので詳しい事情は知らない。

推測するに、「云々」ににんべんを付けて「伝々」と同じだろ、と読んだのであろう、と。

「雨かんむり」を付ければ正解だったのにね。「雲々」で「うんうん」…「うんぬん」は音便というかリエゾンというか音韻変化しているだけだから「うんうん」でもまったく間違いではないはずだ。

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にんべんを付けたのが惜しかった。「云」は、女へん、木へん、りっしんべんがついても「うん」と読む。

ではなぜ「伝」は「うん」ではなく「でん」なのか。「伝」は正しくは「傳」で、「云」とはもともと関係がないからだ。

これは、漢字を簡略化した時のひどいインチキだ。

   *  *  *

ひどいインチキ例が「芸」だ。これはもともと「うん」と読む。用例は、「芸草(うんそう)」という臭い草の名前くらいしか僕は知らない。

それを「藝」の簡略化として採用した。

「温」の簡略化として「汨」を採用するような暴挙だ。全然違う字なのだ。

だからなのか、「文藝春秋」は頑固に意固地に「藝」の字を使い続けている。「東京藝大」もそうか。「文芸春秋」「東京芸大」と書いたら「ぶんぬんしゅんじゅう」「とうきょううんだい」だもんな。そりゃ、違うわ。

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もし首相答弁が「くさかんむり」を付けて読んでいたら「ゲイゲイ」で、何か吐き戻しているようで気持ち悪い……というのは置いといて。

「芸」を「藝」の意味で使わせ、読ませているという、なんだかとてもインチキくさい国語行政で育ってきたんだから、「云々」の読みくらいで鬼の首取ったように騒ぐのも変だよ。と思うのだ。

日本語は千々に乱れて変化しているので、もうすぐ辞書に「以外と少ない」「貞女の鏡」「冷蔵庫に牛乳があたかも知れない」などが載るはずだ。そのときは「でんでん」も勿論載る。

   *  *  *

で、「でんでん」の出処だが、僕は「伝々」説は取らない。

麻雀の時、「リーチ・一発・ドラ一、でんでん」などと数える、あの場の二翻の「でんでん」が由来なのではないかと勝手に推測している。

一般的には「ばんばん」と言われるが、「でんでん」と指を折る習慣の人・地方があるのだ。もしかすると成蹊周辺はそうだったのではないか。

なんてね。「ばんばん」とか指折ってる人に限って点数計算の仕組み解ってなかったりするのがおかしいですね。

   *  *  *

尤も、この件のキモは、当意即妙?に野党をおちょくったかに見える答弁が実は代筆の賜だった、とバレたことなのかしら。

ようわからん。あ、ここは藝州のイントネーションで読んでつかあさい。

 

この映画の主演が、いま話題の〝でんでん〟。ジャケの人ではありませんが。

トランプ大統領だが、副島隆彦が20年前からその登場を延々と予言していたことについて

トランプ大統領が就任したらしいが、いまだにトランプが当選したことを〝アクシデント〟や〝愚かなこと〟と認識してる人がいるのかね。

目の前で起きていることを、事実そのままに認識するのが辛い、という生理がヒトにはある。ヒトはいろんな性向・傾向(バイアス)を持ち、それに適合しない事実(刺激)は認識したくない(反応)、という心理サイクルが起きることがある。きわめて単純な生理・心理反応にすぎないんだが、それが「民主主義」とか「人道」「倫理」といった政治的なバイアスをまとうと、ことがこじれる。

2011年の震災と原子力発電所の事故以来、どんな素人も政治性にさらされ、旗幟を鮮明にするよう迫られ、ストレスを受け続けている、という気がする。

   *  *  *

それはさておき、トランプだ。トランプが大統領になったのは、アメリカの一般民衆の底流、通奏低音、物言わぬ大衆、積年の憾みからして当然だ、と、なんと20年近く前に断言していた本があった。

副島隆彦の『ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ(下)』である。

元の本は1998年とか2000年に出ている(文庫は上下巻だが、底本は正編と続編、それを文庫化の際再構成しているようだ)。だからおおかた20年前に、と言っても間違いじゃない。

僕も底本が出た時に好きで読んでいたのだが、最近図書館で軽い気分転換のつもりで読んだら、〝トランプ〟という文字こそ出ないが、冒頭からどう考えてもトランプのことばかり書いていると気づいて驚愕したしだい。

 

クリント・イーストウッドは、「リバータリアニズム」Libertarianismというアメリカの民衆型の保守派政治思想を体現する人物である。リバータリアニズムとは、「社会福祉を推進し、貧しい人びとに味方し、人権を守る」と主張しているリベラル派の人間たちの巨大なる偽善と闘うために出現した、庶民的な保守思想である。現代においては、左翼リベラルたちは、キレイごとだけをいう偽善の集団に転落してしまっている。現代の思想弾圧は、人権とヒューマニズムを旗印にしてリベラル派が行うのである。(p.16)

 

トランプがリバータリアンかどうかはよくわからんけど、この引用で重要なのは後段だ。つまり、「リベラルの偽善に対して怒りが積もっている」ということ。

 

私は、そのようなヒューイ・ロングが大好きである。彼に体現される政治行動を「ポピュリズム」populismという。そのまま訳せば「人民主義」である。ポピュラーという言葉のイズム形であるから、一般大衆に大変人気のある庶民的な政治ということである。このポピュリズムが荒れ狂うときに、アメリカの支配階級であるエスタブリッシュメントの人々は、憂鬱になり不安な気持ちに襲われる。なぜなら、ポピュリズムは政治家や官僚や財界人たちに対して激しい不信感を抱いて沸き起こる、民衆の怒りの感情そのものを意味するからである。(p.102)

 

なんだ、トランプ登場ってそういうことだったんじゃん、と明快にわかる一段落。20年近く前にこれを読んでいたのに、今回トランプの当選に当惑してしまった自分がなさけなくなる。

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去年の大統領選で目立ったのは、ヒラリー支持派が「私たちはトランプ支持者よりも頭が良い」と思っていたことが印象的だった。ダダ漏れだったよね、この感じ。つまりあの人たちは、「私はお前のようにバカではない」と思っていたのだ。そんなこと思う人はまぎれもない「バカ」だよね。

現今の「左翼リベラル」の苦境も、ここに原因があると思う。リベラルは理想主義であり、自分らは保守派や民族派よりも合理的で進歩的で頭が良い、と思っている。その鼻持ちなら無さに、政治的でありたくない一般民衆が嫌悪感を抱き始めた。というのが日本の2016だったんじゃないかと思う。

副島は本書でヒューイ・ロングの他にポピュリストとしてロス・ペロー、パット・ブキャナンを挙げている。他にロン・ポールもいた(インターFM陰謀論好きドイツ系米人DJデイヴ・フロムが2012に支持していた)。ポールはリバタリアン党からの大統領候補だ。こういう人達はこれまで第三極から立候補していたので民主党対共和党の争いに割り込めなかったが、トランプは共和党から出たためについに大統領の座を射止めた、ということだろう。

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副島は、こんな風に政治的予測がよく当たる。経済的予測も、金地金の高騰などを見事に当てている。

それだけではない、吉本隆明が死んだ時は「自分以上に吉本を理解している人間は世界にいない」などと堂々公言し、自分の思想遍歴を隠さない男らしさがある。

私は学生時代から二十年間ずっと吉本思想に入れ上げた。しかし、この四、五年前から、彼の思想に興醒めするようになった。果たして、思想が変わらずに一貫しているということは、そんなにも意義深いことであろうか。私自身は、昔も今も、自分は時代に合わせて変わっていく存在でしかないと考えてきた。むしろ、時代の感覚のもっとも研ぎ澄まされた部分で誰よりも潔く変化し、思考転換を図っていこうと思っている。その際に大切なことは、自分の考えや思想的な態度がどのように変化していったかを、克明に正確に記録していくことである。私にとって思想とは、どこかから新しい知識を仕入れてきて、偉そうに人々に上手に売りさばくことではない。思想とは、自分の思考がどのように変わっていったかを、まず自分自身に対して偽らず正直に記録していくことである。思想とは、これ以上のものではない。私は、この結論に四十歳頃に到達した。(p.79-80)

この〝偉そうに人々に上手に売りさばく〟という一文で、浅田彰中沢新一、当時はまだ論壇に居なかった内田樹に至るまで、日本の思想家(輸入業者)をなで切りにしている辺り、すごいよね。 

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僕も副島には、心服したり、反発したり、やっぱり帰依したり、離反したりしてきた。今やっぱり、「この人は面白いし、熱い。この人の本は読むべきだ」と思っている。

拙著でも、二箇所ほど副島について触れている。もしよければ、書店で手に取ってみてください。