新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

本『その後のリストラなう』が出ることが明らかになってしまいました。宣伝します

今朝、版元さんのニューズレター(会員制)で、書籍『その後のリストラなう』のAmazon予約が始まったことが告知されていて、おお、とわかったのでした。

本書は、会員制で頒布されている業界誌『出版人・広告人』に4年ほど前から連載したコラム「たぬきちのドロップなう」が元になっています。
そうです、実はそんな連載をしていたのでした。
ただ、当該誌は完全会員制で、出版業界と広告業界の一部の人に頒布されているだけなので、一般社会とは縁がありません。webに再録されたりすることもありません。当該誌もその版元「株式会社出版人」もWebサイト持ってないからね。
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この本は、前にブログが大騒ぎになった時に何度もコメントいただいたことでお友だちになっていただいた今井照容さんが、後に「株式会社出版人」を設立した際に「書いてよ」と言っていただいたことが縁で始まりました。
当時、会社を辞めて閑居して心が塞いでいた僕に声を掛けていただいて、今井さんには本当に感謝しているのです。
ただ、やはり本になるとなると、いろいろじくじく思ったりするんですよね。会社やめてからこっち、新刊書を手に取るのが苦痛だったりする〝心の傷〟みたいなものがやっぱあるし。
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〝本が出る〟ということで、何かしなきゃならんだろう!と焦って、このブログも再開してみたのでした。
再開1カ月目はちょっと書き物をしていたこともあって、逃避でマメに更新していたけど、今月入ると少し気が抜けてサボり気味でした。いかんいかん。
本『その後のリストラなう』は1月中旬以降に発売になります。
そこに向けて、このブログでは、本の内容紹介とかもしながら、本に入らなかった裏事情なんかも書いておこうと思っています。
と言いながら、クリスマスまでちょっと出かけてきますので、しばらく留守します。御免。

砂糖も、ニトログリセリンも、C4も甘い。感想文『炭素文明論 「元素の王者」が歴史を動かす』佐藤健太郎・新潮選書・2013

なんとなくやっている糖質(炭水化物)制限ダイエットと関係あるような、ないような、まあどうでもよいが、非常に面白い本だった。

歴史+人類学+化学の軸で書かれた、非常にちゃんとした“唯物史観”の本。
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ところでマルクスのことを“唯物史観”というのは間違っているんじゃないだろうかと僕は思う。マルクスはマテリアルのことは書いてないんじゃ? 貨幣のことを書こうとして結局、宗教思想になってしまってるような…。
僕が好きなのは、この本のように徹底的に「モノ」にこだわって書かれた歴史だ。マーヴィン・ハリスが一番面白かった(ジャレド・ダイヤモンドは少し冗長に感じたな)。
本書は歴史の中に炭素化合物がどう顔を出すか、短いエピソードを抜き出して並べたような、読みやすい本だ。新書よりちょっと量が多いくらいか。もしダイヤモンドがこれ書いたら800頁くらいの大著にしやがるだろうナ。そのぐらいの内容をうまくまとめてある。
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本書が取り上げる炭素化合物は以下。
デンプン、砂糖、香辛料(芳香族化合物)、グルタミン酸
ニコチン、カフェイン、尿酸(痛風の原因物質だが、痛風患者には歴史的偉人が多い)、エタノール(アルコール)。
ニトロ(火薬)、アンモニア、石油、ナノチューブフラーレンなどの新素材…。
アンモニアは炭素化合物ではないが、窒素は炭素の隣の原子なんだと。炭素化合物と窒素酸化物の組み合わせで歴史が大きく動いたので取り上げられている。
糖質は甘いが、ニトログリセリンもすごく甘いそうだ。ちなみにプラスチック爆薬C4も羊羹みたいな外見で甘いらしい(最近は誤食を防ぐため変な味をわざとつけているらしい。軍隊で上官が新兵にC4を食べさせて腹をこわす事故が時々起きる)し。甘い味覚というのはヘンなのだ。
ノンカロリーの人工甘味料は糖質の分子に一つか二つ余計な枝をつけることによって、人体に吸収されない物質を作る、ということらしい。それでも甘いし、むしろブドウ糖や果糖よりメチャ甘いものができるのだとか。そう、どうやら「甘い」という感覚はすごくストライクゾーンが広いようなのだ。
かえって不思議に思うのは香辛料の「苦い」とか「辛い」感覚。「苦い」は毒性アルカロイドを避けるための警告なのだが、これがなぜか逆に人類を惹き付ける。もっと不思議なのは唐辛子の「辛い」で、じつはカプサイシンは無味なのだそうだ。ただし「痛い」感覚を与えるので、痛みをリカバーするために体が「熱い」反応をする、それが快感になるんだと。
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著者は化学者なので人体に関しては控えめな書き方しかしていないが、「甘い」「苦い」あるいは「うんこ臭い」といった感覚と炭素化合物、人類史の本があったらすごく面白いだろうな、と思う。
すごいなあ、と思うのは、炭素というのは地球規模の重量比で見るとものすごく稀少な物質で、チタンより少ないんだって。それを植物が光合成でせっせと集めてくれたおかげで、人類は様々な炭素化合物に囲まれてくらせるようになった。(石油は植物と関係ない説もあるのだが)
著者の佐藤健太郎氏は光文社新書でも書いていた。『「ゼロリスク社会」の罠』、これも面白かった。でも「炭素」というテーマを新潮社に取られたのは残念だ。

為末大がアウシュビッツ訪ねて「自由って難しい」と言っていて、なかなか納得。

為末大のことは知らない。元アスリートで今は何? ブロガー兼実業家かしら。僕は運動には興味がない。
だが彼のブログは面白いようだ。BLOGOSに転載されて知ったのだが、アウシュビッツを訪れて感じたことを書いておられた。

  自由の難しさ(第九回メルマガより抜粋)  2016年12月12日

印象的な処を抜き出してみる。

見事に仕事が分断されていました。私は連れてこられた人を運ぶ役。私は点呼を取る役。私はドアを閉める役。一人一人の仕事が細かく決められていました。戦後様々なところで裁判が行われたそうですが、私は命令に従っただけだと答えた人がとても多かったそうです。指導的役割を担ったアイヒマンですらそうでした。ハンナ・アレントが言うように、ひたすらに凡庸に命令に従うことで罪の意識を持たなかったのかもしれません。(為末HPより)

古くから言われることだけど、現地で思い出すとかなりの迫力だろうな。

私自身は自由というのを非常に重んじていて、会社への出勤も出来る限り無くしていきたいと思っていますが、一方で実は人間自身が自由から遠ざかろうとしているのではないかと思う時があります。(為末HPより)

フロム「自由からの逃走」だよなあ、と。
おっと、僕はフロムとフランクルをちょっと混同していたぞ。「逃走」は1941の本で、フロムは強制収容所に入ってたわけではない。収容所に入ってたのはフランクルだ。

自分で選んでいるようでいて、実のところ自分の人生に自分の意志はあったのかと言われると、少しどきっとしてしまいます。(為末HPより)

為末の直観は鋭い。彼は競技で世界レベルの闘いをしてきたのだから、そこに自分の意志がなかったかもしれない、などということはけっしてないはずだ。それでもこの問いかけができるのは凄い。
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「自由からの逃走」については池田信夫が書いていたことが興味深い。近代的倫理の基本にあるブロテスタンティズムがそもそも全体主義、個の否定を内包していたという。

多くの人々がカルヴァンに従って戦い、結果的に近代社会を生み出した。それはカルヴァン教団の軍事的な規律が強かっただけでなく、人々に孤独からの救済を与えたからである。

この点でカルヴィニズムはナチズムと同根である、とフロムは言う。(池田信夫blog 2013/11/10)

為末は、「不自由からの解放が自由なのかもしれない」と書く。

アウシュビッツの鉄のゲートを出た時に、ものすごく全身が自由に解放された気分になりました。不自由からの解放が自由なのかもしれないなと思えてなんとも考えさせられました。(為末HPより)

しかし、これは片翼が欠落した議論で、wikipediaは「自由からの逃走」の項をこう結んでいる。

自由を2種類に分類している。〜からの自由と、〜への自由という2種類。 〜からの自由は第一次的絆、たとえば親子関係で言えば子供を親と結び付けている絆や、中世で言えば封建制社会など社会的な制度的な絆などで、そこからの自由などを意味する。〜への自由は個人が個人的な自我を喪失することなく個人的な自我を確立していて、思考や感情や感覚などの表現ができるような状態を意味する。(wikipedia「自由からの逃走」)

為末が結論しているのは「〜からの自由」だけだ。

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では、もう一つの「〜への自由」とは何か。
僕が最近考えるのは、「葉隠」の「死ぬこととみつけたり」というか、まったく選択肢がない状態ででも、断固として主体的にそれを行うこと、が最後に残された「自由」なのではないか、ということだ。
アウシュビッツのような環境で言うと、コルベ神父のような。
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ナチの絶滅収容所は人類学や行動学にさまざまなサンプルを残した。その一つ「カポ」は現代社会でも大変重要な現象だと思う。カポとは、囚人の中から選抜された看守である。囚人が囚人を管理し、囚人の間に意図的に格差が設けられ、囚人の間から連帯や同情を奪うシステムだ。元犯罪者や非ユダヤ人だけが選ばれたという説もあるが、どうだろうか。カポについてはネットで検索してもなかなか出てこないのだ。
僕はDeath In Juneという、オルタナ? ネオ・フォーク? 絶滅収容所を唄う? 音楽家が好きなのだが、そのアルバムに「KAPO!」というのがある。歌詞が分からないのだが、タイトルは紛れもない「カポ」である。

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実は、私たちが生きている現代社会こそが、強制収容所なのではないか、ということだ。
たとえば、ネット炎上という現象がある。これは、ネットを見ながら暮らしている私たちが、熱心に相互監視をしているから起きる現象ではないか? 私たちは、自由のためと称して、互いの自由を制限することに血道を上げているのだ。
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極限状況で、少しでも他人を抜き去ろう(他を抜く…たぬき!)、他より賢くあろう、生命に執着しよう、美味しいものを食べて温かい蒲団で眠ろう、とすると、私たちはカポになるしかない。権力に自分を売って、飢餓や不慮死から少しでも遠ざかろう(飢餓や死から自由になろう)とするのである。
だけど、それは本当に自由なのか? という設問が生まれるだろう。
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僕は、コルベ神父のような生き方しか、最後に残された自由、自分で自分を完全に統御する自由、峻厳な、他の何者からも侵されない自由を生きる方法はない、と思う。
それは、極限状況でなくても、ハンナ・アレントのように生きることでも実現できる。
もちろん、このネットの片隅でも、そういう生き方は可能なのではないだろうか。
などと考えてしまいました。ヒントを呉れた為末大に感謝したい。

兵頭二十八『無人機とロボット兵器』と史的唯物論

たとえば、
「最前線で戦う将兵や装備の数に比して、後方で支援する将兵や装備の質と量がとことん分厚いのが、米軍という組織の伝統的な強みだった。」
とか、
「近代以前の農耕文明圏の軍隊では、武将が馬1頭に乗るためには、複数の馬と複数の馬丁が最低でも必要だった。……ところが遊牧民は、伝統的に、1人のオペレーターが多数の家畜を統御できるようになっている。……原始的な農耕都市国家より数分の一しかない総人口でも、互角の戦闘員を揃えることができたのだ。モンゴル軍に至っては、食料にまで自走させた。すなわち、豚は集団を組んでくれないし、牛の集団は女子供の手に負えないけれども、羊ならば、草の根を食みつつ、後から集団でついてきてくれたのだ。」
といったフレーズは、ジャレド・ダイアモンドとかのファンには堪えられないと思う。
史的唯物論はすっきりして気持ちが良い。現代の唯物論は、心の問題も定量的に扱うので、その冷酷さが痺れるほど気持ち良い。本書ではドローン兵器運用におけるストレスや困難もきちんと述べられている。2009年初版。

史的唯物論は、僕の場合、マルクスとは無関係で、米国の人類学者マーヴィン・ハリスを読んで強い影響を受けた。
いちばん有名なのは『ヒトはなぜヒトを食べたか』だろうか。『食と文化の謎』などは米国でポップな人類学の本としてスーパーで山積みになって売れていた、とのことだ。いつ頃か知らないが。

 

ハリスの説明というか謎解きでいちばん面白かったのは、ユダヤ教イスラム教の豚の食タブーだ。これまで、寄生虫だとか不潔だからとかいった説明がされていたが、「豚の餌はヒトと競合するので、とくに砂漠地帯では豚を飼うことは致命的な贅沢、ゆえに規制された」というハリスの説がもっともシンプルで筋が通っている。最近はこれが一般的に認知されてほぼ定説になっているのではなかろうか。
しかしコスト/ベネフィットで何もかも考えるというのは、本当に冷酷なことである。
だが、戦争のように是が非でも勝たねばならない場面では、どれくらい冷酷な判断をし、実行できるかが勝敗を決すると思う。それは、制度的にストレスが大きいことでも果断にやる、といった冷酷さである。自衛隊は正面装備ではなく支援体制を強くしないといけないと思う。今のままではまた外地で兵士を飢えさせてしまうと思う。

「たぬき教」とは何か。たぬきちを名乗りながら僕は知らなかった

庭先や玄関先に信楽焼のたぬきを置いている家を、ときどき見る。
文京区音羽鳩山会館の庭には、巨大な、2mはありそうなたぬき像が屹立していた。歴史を重ねた趣ある洋館とたぬき。ものすごいミスマッチだった。支援者からもらったものは捨てられない、政治家の残酷な宿命をそこに見て、僕は戦慄した。

※これは某所のたぬきで、鳩山会館のではありません。

たぬき、である。
中途半端に人間に化け、酒を買いに行っている姿らしい。笠をかぶり、通帳(掛け売りの帳面と思われる)、徳利。
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これがなぜ多くの家に飾られるか、先日ある人が教えてくれた。
たぬき=「他を抜く」からだという。
なんと、たぬきは出世、繁栄、弱肉強食のシンボルとして崇拝されていたのだ。
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実在のたぬきは、小さな動物である。最近はネコ属イヌ科タヌキ目に分類されるという(これは分類の大小が逆であるとのご指摘をいただきました。コメント参照)。ネコなのか?うそだろ。
春先に都内の某運動公園で楽器の練習をしていたら、足元をタヌキが通り過ぎた。柴犬よりちょっと小さいくらいの体高だが、身体つきはみっちりと太っていて、シッポは太かった。十分に敏捷そうであったが、身体つきが太めなので精悍には見えない。
これが、弱肉強食・立身出世のシンボルなのか。
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庭先や玄関にたぬきを飾っている家のことを僕は「たぬき教」と呼んでいた。
これが本当に信仰の対象、というか験担ぎ、崇拝の一種であったとは、ショックである。
たぬきを崇める宗教を考えようとしていたのだが、そこはすでに空席ではなかった、というショックである。
失礼しました。

日本の「軍」文化は滅びてしまった。1945以前のドラマはすべて時代劇になった

以前、とある意見広告系の展示会で、説明パネルに「終戦工作に動いた海軍少尉・高木惣吉」という文言を目にした。
もちろん少尉が終戦工作になど関与できるわけないので「少将」の間違いである。
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日本には軍隊がないことになっているので、一般人は軍人の階級に超無関心である。映画の字幕もよく間違っている。
陸軍の将官を「提督」と呼んだりするし、Sergeant Major(先任曹長)とMajor(少佐)の区別もついてないことがある。
(警戒してみていたのだが、戸田奈津子は意外と間違ってない)
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軍隊の階級は、山下清の「兵隊の位で言ったら何?」もそうだけど、戦前の社会では広く認知された縦の軸線だった。そりゃそうだ、徴兵制がある社会では、男子ならほぼ全員が軍隊を経験し、その末端に序列づけられた経験を持つからだ。もちろん例外は多いのだけど。家長は兵役義務免除だった、とか僕は意外だった。
日本の戦前の小説や、今でも海外の小説は軍人や元軍人が、階級的な価値観をもって描かれる。映画にも時々出て来るし、Sergeantを軍曹と訳すか警部と訳すか、非常に難しい。ビートルズのサージェント・ペパーは、ペッパー警部なのかペパー軍曹なのか?
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日本人は宗教的なモチーフを理解できない、といわれるが、階級的なモチーフも苦手にしている。
犯罪映画とか、そういう伏線が出てくることが多くて、けっこう見過ごしてることが多いのだ。
たとえば「ゴッドファーザー」のマイケルは、大学中退で1941に海兵隊に入り、1945に大尉で除隊して帰ってくる。これが、国家を徹底的に信用しないドンの逆鱗に触れてるわけだが、どれくらいエリートでどれくらい英雄だったか、僕らにはまったくピンと来ない。
(ジョンFケネディも1941に海軍に入り、戦傷で名誉除隊したが、魚雷艇の艇長だった時中尉である。マイケルの造形にはケネディがちょっと入ってるような気がする)
もう一つ日本人が苦手にしているモチーフは、民族差別である。アメリカ映画はどんなエンタメ作であっても、人種・民族的なモチーフが入っている。犯罪映画ではそれが主題のものも多い(アイリッシュチェチェン・マフィアの抗争とか)。民族という前提は説明されずに呈示されることが多いので、日本人は見逃してしまうことが多い。
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この世界の片隅に」で僕が感動したのは、幼馴染みが水兵になってヒロインの前に現れた挿話だ。
軍人、兵士に対して、世間がどう見ていたか、尊敬・畏怖・敬愛・忌避の感情が、このシーンに繊細に描写されていた。
でも僕は、残念なことの海軍の階級章がわからないので、彼の階級が理解できなかった。
「片隅」は時代劇として模範的な考証をしている。NHK職員だった考証家の人が書いた本──文春文庫だったかな──には、江戸時代以前とともに明治・昭和の戦争関係の考証も採録してあった。テレビの当事者も危機意識を持っている。というか持たざるを得ないくらい、私たちの文化は断絶してしまった。
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もっとも、少将と少尉を取り違えて平気でいられるのは、平和な証拠、けっこうなことである。もうじき、日本でも自衛隊が国軍になり、もっと軍隊について敏感にならなければならなくなるかもしれない。

これ、名著です。けど意外にボリュームは少ない。

ゲゲゲ一周忌でしたね。ついでにいろんな方を追悼

昨日11月30日は水木しげる先生の一周忌であった。
僕は「妖怪忌」と呼んでいる。おばけは死なない、はずであったが。
本年1月末日に青山斎場で行われた水木先生お別れの会には、僕も歩いて行った。
会葬者?には先生の言葉が書かれた葉書をお土産にくださった。


あんまり恰好良すぎて、少し据わりが悪いような気がするのであった。
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11月28日は菅原文太の命日、今年は三回忌である。
僕は「仁義な忌」と呼んでいる。
亡くなる11月のアタマに、翁長雄志現沖縄県知事の選挙応援に入っている。その有名な動画がある(翁長氏本人のアカウントで公開されている)。

恰好良い。しかし、よくよく聞くと、言ってる事はメタメタである。
菅原文太は、ずっとリベラルな候補者を応援してきた。
僕が最初に知ったのは、中村敦夫サラリーマン新党)の応援だ。既存左翼とはちょっと違う人なので、「菅原文太らしいな」と感じた。
けど、現代に近づくにつれ、めちゃくちゃな政治情勢を反映してか、菅原文太の応援相手もめちゃくちゃになる。
ホリエモン亀井静香では亀井を応援。これは亀井がかつての典型的自民代議士からゲバラ主義者に変貌した後だから、まあ納得できる。反逆者が好きなんだよねきっと。
しかし2012衆院選での松本龍はどうか。解放同盟からの候補者だから応援したのかな? それはそれでいいんだけど、もっと候補者の人間を見てよ、と思う。2011の暴言騒動の後よ? いや、だからなのか。よくわからないけど、福岡在住で世話になったのかしら。頼まれたら厭とは言わないのか。
2014都知事選では細川護煕宇都宮健児じゃないんだ……共産党とは反りが合わないのかな。それもまあポリシーだけど、殿はないだろ、と思わないか。
2014沖縄県知事選では翁長。僕は翁長は非常な食わせ者ではないかと警戒感を持って見ている。ある意味、カーツ大佐(地獄の黙示録)のような人ではないかと。カーツ大佐のモデルはマッカーサーである(副島隆彦説)。それだけ実力はある政治家なのだが、マッカーサーと違ってカーツ大佐は狂っているのだ。翁長氏は狂っているわけではないが、言ってることと目指している処が違うのではないかという疑いを持って僕は見ている。
菅原のスタンスに一番近いのは実は喜納昌吉じゃないかと思うが、どうだったのだろうか。喜納昌吉は地元では大変評判が悪い。最悪である。それを本人も知ってて選挙に出るんだから凄いんだけど。彼の公約は、実は他の候補者よりもずっと筋が通っていた(篠原章氏の指摘を参照)。論理的一貫性があるということ。実は沖縄の反基地運動と振興・開発・独立論はなかなか論理的整合性が取れないものが多いのだ。翁長現県知事のやってる事も、実は非常に論理的でない。まあ運動というのは論理だけではないけれど…。
でもまあ、相手がメタクタでも仁義を忘れずきちんきちんと応援してきた菅原文太は、その当たり役・広能昌三らしさたっぷりだ。広能=美能幸三は、仁義も何もない組織と抗争のなかで、ひとり一所懸命仁義を通そうとして孤立し、裏切り者と呼ばれることになったのである。仁義を通すとメタクタにされてしまう、ということである。
だから、恰好良すぎて恰好悪い菅原文太は、実は恰好良い。
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その間の11月29日はジョージ・ハリスンの命日である。2001没。58歳。若い。
オール・シングス・マスト・パス、ということである。